上中津城望樓有懐黒田如水

帷幄神謀開泰平
封於西國築堅城
只憐嗣子貪功伐
天下三分却不成
黒田如水,臨関原役,稱與東軍,大攻西軍諸侯,破之,併其封土,遂獲鎮西諸州大半。徳川内府及破石田礼部,頓命如水止戈。巷説曰,如水密有逐鹿之志,欲乗内府礼部両雄拮抗,得漁父之利,三分天下,自取其一。然而嗣子長政遠在関原,不知如水大志,不唯奮闘於戦場,唆金吾叛礼部,以使東軍大捷。是以如水覇圖遂帰水泡。又曰,後日長政誇関原戦功曰,「内府自取我手,稱謝」。如水問曰「左右何手」。長政答曰「右手也」。如水曰「其時汝左手何爲」。

2009年10月

押韻

平・城・成:下平声八庚韻

訓読

中津城の望樓に上りて黒田如水を懐ふ有り

帷幄の神謀 泰平を開き
西國に封ぜられて 堅城を築く
只だ憐れむ 嗣子 功伐を貪りて
天下三分 却って成らざるを

黒田如水,関原の役に臨んで,東軍に與(くみ)すると稱し,大いに西軍諸侯を攻め,之を破り,其の封土を併せ,遂に鎮西諸州の大半を獲たり。徳川内府,石田礼部を破るに及んで,頓(とみ)に如水に命じて戈を止めしむ。巷説に曰く,「如水は密(ひそ)かに逐鹿の志有りて,内府・礼部両雄の拮抗するに乗じて,漁父の利を得,天下を三分して,自らは其の一を取らんと欲す。然れども嗣子長政,遠く関原に在りて,如水の大志を知らず,唯だに戦場に奮闘するのみならず,金吾を唆して礼部に叛かしめ,以て東軍をして大捷せしむ。是を以て如水の覇圖は遂に水泡に帰せり」と。又曰く,「後日,長政,関原の戦功を誇りて曰く,「内府,自ら我が手を取りて,謝を稱(とな)ふ」と。如水,問ひて曰く「左右何(いづ)れの手ぞ」と。長政,答へて曰く「右手なり」と。如水曰く「其の時,汝の左手は何をか爲す」と。」

中津城:天正15年(1587年),黒田官兵衛が豊前16万石を与えられて築城に着手するも,完成前に黒田家は関ヶ原の戦功により筑前52万石に転封となり,築城はいったん中断された。しかし,そのあとに中津に入った細川家が築城を継続して,元和7年(1621年)にいたってようやく完成した。山国川河口に位置し,海水を引き込んだ堀に守られた堅固な城であり,日本三大水城のひとつともされる。城の縄張りが全体として扇形をしていることから「扇城」の別名も持つ。もともと天守閣は建てられなかったとする説が一般的で,現在存在する天守閣は戦後になって造られた模擬天守である。
望樓:ものみを目的とする高い建物。ここでは天守閣。
黒田如水:黒田官兵衛孝高(1546~1604)。如水は隠居後に名乗った号。豊臣秀吉に参謀として仕え,戦においては作戦立案,外交においては諸大名への調略に活躍し,秀吉の天下統一に不可欠の役割を果たした。しかし,天下統一前後から秀吉にその智謀を警戒されるようになり,加えて石田三成ら吏僚派との間に確執を生じたことで秀吉との間に溝が生じたという。秀吉の九州平定後の天正15年(1587年)に豊前中津16万石を拝領したが,そのわずか2年後に家督を息子長政に譲って隠居,さらに文禄2年(1593年)には出家している。これらの行動は秀吉からの警戒を解くためだったという。秀吉の死後,関ヶ原の役では独自の動きを見せるが,それは後述。
帷幄:とばりと幕。転じて軍中で作戦を立てる場所。<<漢書・張良傳>>「運籌策帷幄中,決勝千里外,子房功也(籌策を帷幄の中に運らし,勝ちを千里の外に決するは,子房の功なり)」。ちなみに黒田如水は「今世の張良」と評された。
神謀:神のごとき見事なはかりごと。
堅城:堅固な城。黒田如水は築城の名人としても知られた。
:気の毒におもう
嗣子:あとつぎ。黒田長政。
功伐:手柄
封土:君主から与えられた領土
鎮西:九州
徳川内府:徳川家康。内府は内大臣の唐名
石田礼部:石田三成。礼部は三成の官職,治部少輔の唐名「礼部員外郎」の略。工部員外郎であった杜甫を杜工部と呼ぶのと同じ
止戈:戦争をやめる
逐鹿:天下の覇権を争う
金吾:小早川秀秋のこと。秀秋の官職,左衛門督の唐名「執金吾」から。関ヶ原の戦いでは西軍に属しながら全く動かず,正午すぎにいたってついに東軍に寝返って西軍を攻撃した。これをきっかけに西軍は総崩れとなり,関ヶ原の勝敗は決した。
稱謝:感謝の意を述べる

中津城の天守閣に登って黒田如水について思うことがあった

陣中における神のごときはかりごとで秀吉の天下統一を助けて泰平の世を開き
西方の地に領土を与えられて,この中津城という堅固な城を築いた
ただ気の毒だったのは、後継ぎである長政が関ヶ原で貪欲に手柄を追い求めたがために
自らの思い描いた天下三分の計がかえって成就しなくなったことだ

黒田如水は関ヶ原の戦いにのぞんで,東軍に味方すると称して,西軍の諸大名を大いに攻めてこれを撃破し,彼らの領土を併合し,かくて九州の大半を手中におさめた。徳川家康は関ヶ原で石田三成を破ると,急いで如水に命令して九州での戦争をやめさせた。世間では以下のように言われている。如水はひそかに天下の覇権をあらそう大志をいだいており,家康と三成の両雄が拮抗するのに乗じて漁父の利を得,天下を三分して自身がそのうちのひとつを領有しようと思っていたが,しかし,あとつぎの長政は遠くはなれた関ヶ原にあって如水の志は知らなかったので,単に戦場で奮闘するにとどまらず,小早川秀秋をそそのかして石田三成から離反させ,それによって東軍を大勝利に導き,そのために,如水の覇業のはかりごとはついに水の泡と消えたのだと。また,以下のような話もある。後日,長政が関ヶ原での戦功を誇って,「家康様は自ら私の手を取って感謝を述べてくれました」と言ったところ,如水は「それは左右どちらの手であったか」とたずねた。長政が「右手です」と答えたところ,如水は「そのとき,きさまの左手は何をしていたのか(すなわち,なぜ,その左手で家康を刺し殺さなかったのか,という意味)」と言ったという。

補足

門司に上陸したあと,まず,電車で中津に向かいました。黒田如水ゆかりの中津城を訪ねるためです。語注にも書いたとおり,中津城の天守閣は戦後に造られた模擬天守で,中は資料館になっていますが,そこにあるのは奥平氏(黒田氏・細川氏・小笠原氏のあとを受けて中津藩主となり,明治維新まで続いた)のものばかりで,黒田如水ゆかりのものはありません。これは模擬天守が奥平氏子孫が経営する企業の所有する施設であることを考えれば,ある意味,当然といえば当然です。ちなみに,この天守閣資料館の運営は赤字がかさんでいるため,運営主体の企業は城の土地と一緒に売却を希望しているようで,一時問題になってテレビでも取り上げられていましたが,現在どういう状況になっているのかよくわかりません。ただ,観光客を増やそうとするのであれば,全国的な知名度のある黒田如水を取り上げたほうがいいのではないかと思います。

詩のほうですが,転結の内容はそれだけではわかりにくいと思いますので,漢文の注をつけました。ただ,関ヶ原の戦いの際の如水の動きは,昔,NHKの「そのとき歴史は動いた」でも取り上げられたことがあったので,結構知られているのではないかと思います。NHKの放送では,如水の描いたシナリオは,九州を制圧したうえで家康・三成の死闘を高見の見物し,勝敗が決した直後に,疲弊しきった勝者を攻め滅ぼして自らが天下を取る,というものだったと記憶しています。そこまでを狙っていたかどうかはわかりませんが,両者の戦いが長期化した際にキャスティングボートを握ることくらいは狙っていたでしょう。それにしても,「そのとききさまの左手は何を」のエピソードは背筋の凍る話です。これでは秀吉に警戒されるのも仕方ないでしょうな。