賤嶽懐古 其一【2009.05】(賤ヶ嶽懐古 其の一)
賤嶽懐古 其一
五更疾撃七槍功
折戟伏屍皆作空
四百年前人馬叫
如今只聴樹間風
2009年5月
押韻
功・空・風:上平声一東韻
訓読
賤嶽:賤ヶ嶽.天正11年4月(西暦1583年6月),織田信長の後継者の地位をめぐり,羽柴秀吉と柴田勝家がここで激突し,秀吉が大勝した.勝家は本拠地の越前・北ノ庄城へ退却したが,余勢を駆って攻め寄せた秀吉軍に包囲され,夫人のお市の方(信長の妹)とともに自害して果てた.
五更疾撃:五更は午前3~5時ごろ.疾撃はすばやく激しい攻撃.天正11年4月20日(西暦1583年6月10日),美濃・大垣にいた秀吉は,柴田側の佐久間盛政が大岩山・岩崎山の両砦を落としたとの知らせを受けるや,50km以上の距離をわずか5時間で移動するという強行軍で賤ヶ嶽へ駆けつけ,21日未明には,あわてふためいて退却する佐久間盛政軍を急襲,大勝の糸口をつかんだ.
七槍:いわゆる「賤ヶ嶽の七本槍」.加藤清正,福島正則,加藤嘉明,平野長泰,脇坂安治,片桐且元,糟谷武則の七将.中井積善<紀柳瀬之戦>に「加藤清正,福島正則,・・・・・提槍跳進,所向無前,大破之于清水山,獲勝政,世傳之稱柳瀬七槍云」とある.また,賤ヶ嶽山頂にある「賤嶽戦跡碑」の碑文(滋賀県令篭手田安定が明治9年に書いたもの)には「秀吉麾下壮士,加藤某等七人揮槍奮前,所向無敵,世稱之賤嶽七槍」とある.
折戟:折れたほこ
伏屍:地に伏す死体
如今:いま
注
賤ヶ嶽懐古 其の一
五更の疾撃 七槍の功
折戟 伏屍 皆 空と作る
四百年前 人馬 叫ぶも
如今 只だ聴く 樹間の風
訳
賤ヶ岳懐古
賤ヶ嶽の戦いでは,未明から秀吉軍の迅速猛烈な攻撃が行われ,「賤ヶ嶽七本槍」が手柄をあげたが,
折れたほこも,地に伏した死体も,もはや,みな跡形もない
四百年前,戦いのさなかには人馬の叫びが響いていただろうが
今となっては,ただ木々の間を吹き抜ける風の音が聞こえるばかり.
補足
近江八幡水郷めぐりを楽しみ,近江牛の特上すきやき定食に舌鼓を打ったあと,JRで木ノ本駅まで移動,そこから2キロ半ほど歩いて賤ヶ嶽を訪ねました.ふもとから山上まではリフトで登れますが,リフトを降りた地点はまだ頂上ではなく,そこからさらに300mほどかなり急な道を歩かなければなりません.頂上には賤ヶ嶽の戦いの戦没者を弔う石碑のほか,合戦後400年を記念してつくられた武者像などがあり往時の激戦をしのぶことができます.また,賤ヶ嶽は史蹟であると同時に湖北随一の名勝であり,琵琶湖と余呉湖を一望する絶景も堪能できます.
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