曹操(横山光輝『三国志』第15巻「英雄論」)
魏武歿後一千八百年賦一詩

下瞰群雄銅雀樓
文才武略兩無儔
中原定覇雖容易
應恨二喬終叵收

2020年5月

押韻

樓・儔・收:下平声十一尤韻

訓読

魏武没後一千八百年、一詩を賦す

群雄を下瞰す 銅雀楼
文才 武略 両つながら儔ぶもの無し
中原に覇を定むるは容易なると雖も
応に恨むべし 二喬の終に収むべからざりしを

魏武:魏の曹操(155~220)、字は孟徳。後漢末の乱世の中で台頭し、献帝を奉じて漢の丞相、魏王に登った。208年赤壁の戦いに敗れて天下統一はならなかったが、当時の政治・経済・文化の中心であった黄河流域を支配下に置き、魏王朝の基礎を築いた。生前は帝位についていないが、息子の曹丕が帝位につき魏王朝を建てた後、「太祖武皇帝」と諡されたため、後世、「魏の武帝」「魏武」と呼ばれる。漢の建安25年1月23日(西暦220年3月15日)没。
下瞰:下を見下ろす。
銅雀樓:銅雀台。曹操は最大の強敵であった河北の袁紹を滅ぼすと、その根拠地であった鄴城の西北隅に巨大な楼台を築き、銅雀台と名付けた。屋上に銅製の鳳凰が飾られていたという。 頼山陽《詠三国人物十二絶句》「金刀版籍得雄蹲 銅雀楼台日月昏」
無儔:ならぶ者がない。匹敵する者がいない。
中原:黄河流域、古代中国の中心地域。
定覇:覇業を確立する。
二喬:喬姉妹。絶世の美女として知られ、姉の大喬は呉主孫策に、妹の小喬は呉の武将周瑜の妻となった。正史の『三国志』では「橋」だが、『三国志演義』では「喬」に改められている。好色の曹操にとって、二喬を手に入れることが、呉を攻める動機だったという見方が、演義成立以前からすでに広まっており、杜牧の詩「赤壁」もこれに基づいている。 杜牧《赤壁》「東風不爲周郎便 銅雀春深鎖二喬」
:「可」をさかさにしてできた字で、「不可」の意をあらわす。~できない。

曹操没後1800年に一詩を詠む

天高くそびえたつ銅雀台の上から群雄を見下ろしていた曹操は
文才も軍略もともに並ぶものはなかった
そんな曹操にとって中原を制覇することは容易だったであろうが
絶世の美女の喬姉妹をついに手に入れられなかったことはさぞ残念だったであろう

補足

3月に曹操没後1800年を迎えたので詩を作ることにしたのですが、なかなかまとまらなくて5月になってしまいました。

演義では完全に悪役の曹操ですが、文学・政治・軍事の各方面で他の群雄を圧倒する才能の持ち主であったことは間違いありません。ことに文学に関しては、建安文学の保護者にして主導者であり、その後の六朝から唐につながる詩の流れは彼から始まるといっても過言ではありません。

そう考えれば、没後1800年はもっと盛り上がってもよかったのでしょうが、さすがに新型コロナ騒動のただ中とあって、世の中はそれどころではなかったようです。