夜見櫻花憶兒島高德【2024.04】(夜 桜花を見て児島高徳を憶ふ)
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尾形月耕『桜の詩』(一部) |
夜見櫻花憶兒島高德
微服濳行空失時
壯圖雖敗志猶持
藎臣白樹寫衷夜
萬朶花輸十字詩
2024年4月
押韻
上平声四支韻:時・持・詩
訓読
夜 桜花を見て児島高徳を憶ふ
微服潜行 空しく時を失し
壮図 敗るると雖も 志は猶ほ持せり
藎臣 樹を白くして 衷を写すの夜
万朶の花も輸す 十字の詩に
注
兒島高德:『太平記』に登場する武将。仮名(けみょう)は備後三郎。後醍醐天皇に一貫して忠義を尽くし奮闘したとされる。元弘の変に敗れた後醍醐天皇が幕府軍に護送されて配流先の隠岐へ向かっていることを知った高徳は、郎党を率いてこの鹵簿を襲撃し天皇を救出することを画策したが失敗。諦めきれない高徳はせめて帝に思いを伝えるだけでも、と単身で行在所(院庄の美作守護館)に忍び込んだが警固が厳重でついに断念し、庭にあった桜の幹を削り「天莫空勾践 時非無范蠡」という十字の詩を書きつけて立ち去った。朝になって発見されたこの詩のことを聞いた天皇はその意を解し微笑まれたという。 《太平記巻四・備前国住人児嶋三郎高徳主上を奪ひ奉る事》「高徳一人はなほもこの所存を上聞に達せんとて、微服潜行して、隙を伺へども叶はざりければ、せめての事に主上の御座ありける御宿の庭に大なる桜の木のありけるを削つて、大文字に一句の詩を書きたりける。天莫空勾践 時非無范蠡 と。御警固の武士ども、朝にこれを見付けて、何物の何事を書きたるやらん、と見れども、読み明かしむる物も少なくて、とかく沙汰しける程に、主上聞こし召して、事の様を御尋ねあつて、うつさせて御覧あるに、朕がためになほ事を謀る忠臣義士もありけりと、憑もしく思し召しければ、龍顔御快気に打ち笑ませ給ひしかども、武士どもはあへてこの来歴を知らざれば、しばらく咎むる事もなくて休みにけるこそをかしけれ。」
微服濳行:服装を変じて人目を避けて隠れ行く。変装してもぐりこむ。前掲《太平記》を参照。
失時:時機を失う。好機をのがす。
藎臣:忠義の厚い臣。
白樹:樹木の皮を削り白くする。 《史記・孫子傳》「乃斫大樹、白而書之曰、龐涓死于此樹之下」 小野湖山《白樹題詩圖》「慨然白樹寫微誠 鬱勃胸中十萬兵」
萬朶花:高徳が詩を書きつけた桜の木が、その夜咲いていたかどうか、『太平記』に記載はない(そもそも天正本では「桜の木」ですらなく「柳」になっている)。大沼枕山はその詩《兒島高徳》で「殘櫻(散りかけの桜)著意待忠良」と詠んでいるし、このページ冒頭の尾形月耕の画《桜の詩》でも桜の花が咲きこぼれているが、当然ながらどちらも想像である。『太平記』によれば、鹵簿が都を出立したのが元弘2年3月8日(ユリウス暦1332年4月3日=グレゴリオ暦換算同4月11日)、出雲国八杉浦に着いたのが同13日(ユリウス暦1332年4月8日=グレゴリオ暦換算同4月16日)となっているので、行在所でのこの出来事はこの両日の間のことということになり、その年の桜の咲き具合によって、五分咲き、満開、散りかけ、散った後、いろんな可能性がある。そもそもこの故事自体、史実かどうか定かではない(というより創作である可能性が高い)が、時期的には万朶の花が咲き誇っていたと想像することに無理はない。
輸:負ける
十字詩:高徳が書きつけた「天莫空勾践 時非無范蠡」という十字の詩(後述のとおり厳密には詩とは言えないが)。 大槻磐渓《備後三郎題詩櫻樹圖》「稜稜俠骨香千古 一樹櫻花十字詩」
訳
夜に桜の花を見て児島高徳のことを思い起こす
変装して行在所にもぐりこんだものの、ひそかに帝を救出する機会はむなしく失われてしまった
大胆なはかりごとは失敗してしまったとはいえ、高徳はその志をなおも堅持した
その証に彼が幹を白くして真心を書きつけたその夜
咲き誇る万朶の花といえども、たった十字の詩の素晴らしさにかなわなかったであろう
補足
児島高徳の十字の詩の故事は、文部省唱歌「児島高徳」にも歌われていて(♪微衷をいかで聞えんと 桜の幹に十字の詩)、戦前には日本国民で知らない人はいなかったであろうほど有名な『太平記』のワンシーンですが、現在では知っている人の方が少ないかもしれません。エピソード自体は荒唐無稽であり、到底史実とは思われませんが、『太平記』の成立・普及以来、広く日本人のあいだで共有されてきた物語ですから、これを無視して忘れ去ってしまうには惜しいと個人的には思います。
なお、「十字の詩」というものの、五言二句しかなく押韻もしていないので厳密には詩とは言えませんが、世の中には詩として通用しており、大槻磐渓の詩にも「十字詩」と詠まれているので、拙詩においても「十字詩」という語を使用しました。
また、高徳の「十字詩」では范蠡を忠臣の代表のように挙げていますが、これにも疑問を感じざるを得ません。確かに范蠡は越王勾践を支えて呉を滅ぼすのを助けた大功臣ではありますが、その後は勾践から離れたうえ、勾践のことを「人相が長頸烏喙(首が長くて口がくちばしのようにとがっている)で苦難はともにできても歓楽はともにできない」とひどい言葉でけなしています。とても忠臣とは言えませんし、自分の忠義を伝える際に自身をたとえる相手としてふさわしい人物とも思えません。このエピソードが『太平記』作者の創作であるという前提に立てば、『太平記』作者は、呉を滅ぼした後の范蠡についての知識が欠けていたのではないかとも思ってしまいますが、専門家ではないので感想の域を出ません。
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